”伝えたい”という気持ち自体

今日は、友人にすすめてもらったこの本を読んだ。

わたしは自閉症と診断されたわけではないけれど、発達障害の中でも自閉症のカテゴリと同じ場所に属しているようだった。

外見にぱっとはわからない知的障害があると言われ、記憶力が異常に悪いことは自覚していたにせよ、言語に関する部分に不自由があると数字を見せられたことは、ショックなことだった。

わたしが、何かを書き留めるようになったのは20歳のとき。

しかもそれは、自分だけが読める日記のようなものではなくて、必ずブログのように、他人が読める場所に書くのが自然なことだった。

自分で、「誰かに読んでほしい」とか、「伝えたい」とか、あからさまなそういう感覚があったわけじゃないけれど、それでも

誰かがどこかで読める状態でなければ、息が詰まるくらいに苦しい感じがした。

 

一生懸命言葉を追いかけてきて、なにかわからないけれど、どうしても伝えたいことがいつもあって、それは自分の得意なことだとそう思ってきて、いつも評価をされた場所だった。

それが実は、不自由だったがゆえの、「うまく伝えられない自分」だったからこその選択だったことを知ったのが、37歳と7ヶ月目のことだった。

 

わたしは普通に人と話ができるので、実は言っていることが支離滅裂なことがあったり、言葉が足らなかったりすることはあまり誰にも気づかれなかったのだけど、

今になって、みんなに

「だからマイさんの言ってることは意味不明だったのか!」とか、

父には今日

「1+1=2と言ってるつもりが、聞いてる側には1ー1=5みたいに聞こえてたんだねえ」と言われたりしている日々。

週末様子をみにきた山下(元恋人)には、

「子供と話してると思えばいいんだよな」と言われた。

 

外に出ようとしたり、人のいる場所に行こうとするたびに具合を悪くする私をみた母は心配し、

「伝えたいことが自分のなかでも混乱していたり、わからなくて人と話すときに不安になるなら、無理に話したりしないほうがいいんじゃないの?」

自分のことを必死に世界に話そう、伝えようとしていた時期だったのでそう言われて涙が止まらなくなった。

「どうしてそんなことをいうの?」とたどたどしく訴えるやいなや

「あんたはいつも、”わかってほしい、わかってほしい”とそういうけれど、周りは困るよ。」と、わたしの”伝えたい”は一網打尽にされる気がした。

 

わたしはいつも、誰かに「自分のことをわかってほしい」、とは思っていなかったと思う。

でも必死で自分のことを話そうとすればするほど、そうじゃないのに「わかってくれ、わかってくれ」と押し付けているみたいに思えて毎回苦しくなった。

 

今日この本を読んで、

「僕のことをわかってほしい」

が、エゴではなくて、本当にただ、伝えたいことがあるのに伝えられなくてもどかしいんだ、ってことが

シンプルに記されていて

 

読んだあとに、すすめてくれた友人と話して、これまでのいろいろなことが繋がった。

 

「伝えたい」というきもち

「伝わる」という愛のこと

それが、スムーズにいかないときに

いろんな方法を、一生懸命あきらめずに最後まで探すこと。

 

自分がやろうとしていたことは、とてもシンプルだったんだと気づいた瞬間だった。

コミュニケーションや対人関係において、障害があるないにかかわらず

わたしたちは、「伝わらない」ことに傷ついたり、諦めたり、そんなこと無意味だと思ったりする。

 

でもこの本には、

そうじゃないんだという答えが書いてある。

 

わたしが必死で自分のことを話そうとするときに、根気よく耳を傾けてくれたり、理解をしてくれるひともいれば、迷惑がるひとも、嫌なきもちになるひとも、去るひとも、いろんなひとがいた。

 

正解もないし、誰も悪くないし、ただ、「伝えたい」とだけ思ってきた自分のことが、初めてわかった今日、涙があふれた。

 

 

すてきな本なので、ぜひ読んでください。

うまく言いたいことが言えないひとも、発達障害のひとも、誰かのことを理解したいのに、上手にわからないひとも、だれにとっても

ひととひとの間に橋がかかるときの

すばらしい美しさが

書かれていると思います。

 

いつも自分が感じてきたことがこの本には書いてあって

わたしも、遠まわりしてもいい、時間がかかってもいい、それでも伝えたいことを伝えていこうと思いました。

 

 

 

 

すすめてくれた素敵なともだちのコメント。