「家族を変えたい」と思ったときに、まずできることは
「自分が変わり続ける」こと。
でも実は、あるところまでそれをやって、自分がある程度上がっていくと、今度何が起こるか?
これが面白いんだけど、
「自分が変わらない」選択をすることで、周りが変わるしかない状況を作り出す、というもの。
今回わたしが自分自身の例をあげると、
「わたしは実は37年間アンタらが気づいてくれなかったが、発達障害であった✌️」
「そういうわけなんで、わたし実は色々できないことが多すぎたので、
(あと、ここ重要ポイントなんだけど、
わたし限界まで頑張って変わろうとして、リアルに変わって別人みたいになったので✌️、
今度は君たちのほうが、ちょっと頑張って変わってくれる?」
こんな感じ(笑)↑お父さんお母さんへ向けて😅
これね、本当ある程度癒やしと浄化をめっちゃ頑張ってくれたみなさんは
ぜひ適用してトライしてみてほしいんだけど、
基本は、他人を変えようとしても無駄だし、無理でしょ。
でも、それに気づいた人から、自分を癒すこと、自分が変わることを始めてく。
自然と周りはそれに引っ張られて、変わっていきます。
でもね、「自分が変わる」⇨周りの自然な化学反応を待つ
レベルと、
「わたしもう今はこのままで行くから、こっちに合わせてね!」
レベルは
小さい木がゆっくり育つのと、どっかから育った木を持ってきて直接植えて庭にでかい木を立てちゃうくらい違う。
つまり、家族とうまくいかない時に
どうすれば優しくなれる?どうすれば賢くなれる?
どうすれば旦那さんのこともxxちゃんのことも、xxxちゃんのことも、思いやることができるのかな。
て自分を振り返ってもうまくいかない理由は何かというと、
多分もうそんなに変わらなくていいから(笑)十分変わってきたから。
変わらなくていい、というと少し語弊があるので補足しておくと、
「周りに合わせて変わる」概念を一切やめる。
その代わり、変わり続けるとしたら、
「自分らしくいる」方向に、自分が自分であることを、とにかく追求し続ける。
こんな感じ。
わたしはちなみに、この秋から年明けまで、「バラバラだった家族をなんとかしたかった」という意識は1ミリもありませんでした。
じゃあ、なぜ、バラバラだった家族が、ひとつに向かわざるをえなかったのか?
理由はただひとつだと思う。
わたしが、元のわたしであること、本来の自分に戻ることを、貫こうとしたから
です。
自閉症で起こりがちなパニックを、家族の目の前でじゃんじゃんやってのけることを選び始めたら、家族はもうそれこそパニック(笑)
わたしのなかでは、生まれてからずっとその混乱と激しい苦しみは単にひとりで抱え続けてきただけなので、それを”ひとりでいるときにやるか” ”家族の目の前でやるか”の違いだけだったんだけど、
これまでは、ときたま爆発すると
「マイがおかしい」「やばいんじゃないか」と異常自体として押さえつけられてきた。
がしかし、実はそれが日常茶飯事だと知った家族。。。笑
一度、なんかもう内容忘れちゃったんだけど😅💦
お父さんがやることなすことが、わたしの意思と真逆に動くことが毎回パニックを引き起こし、ぎょえーと叫びながら、手伝おうとする父に
「出てけ!!!!いますぐに出ていけええええええ!!!!!!!!」
みたいにやってたのね。
そうすると、逃げるようにして去る父。
もはや父には手に負えないと思った母がきて、わたしの様子を伺う。
それで、なんていうか、わたしは「バラバラだなこいつら」と察知したんだよね。
バトンタッチはしてても、協力してる感じがしない。
しばらく、お母さんはひとりでわたしをケアしようと頑張っていた。
そのときお父さんは、ほとんどわたしの逆鱗に触れぬように、遠ざかっていた。
それが許せなかったので、
めっちゃ手伝おうときてくれてる母に、今度、
「出てけ!!!!いますぐに出ていけええええええ!!!!!!!!」
とわたしは叫んだのであります。😅
これ翻訳すると、
↓↓↓
「お前ら、本気でひとつにならなければ、今のこの危機は絶対に乗り越えさせん。
それまでわたしが狂って死のうがどうなろうが、パニックでい続けてやる!!!!!!
お母さんが手伝おうとしても、お父さんが理解するまでは、絶対にお母さんも手伝わせん!!!」
こんな感じ💦
その後まもなくして、お母さんがそれを理解し、起こったことをすべてお父さんに話すようになったらしい。
「今度は君たちのほうが、ちょっと頑張って変わってくれる?」
がまあ、
こんなに激しい必要ななきにせよ、
とりあえず、どっかを固定した状態で、「全体を変える」となると、固定した場所以外が変わるしかない。
これ自然の摂理。
それを意思とコントロールで(エゴのないほうね)起こす。
日本は、みんなが、それぞれをちゃんとみているようで、みて見ぬふりをする国柄。
そしてひとつに向かうため、なにかを解決するために、誰かが犠牲になるのではなく、
「自分が自分であること」を選んでみる。