この半年で、わかったことがある。
人を見上げる人は、まったく同じように、人を簡単にナメて、見下す。
これまでの人生、わたしのことを知らない人は、ほとんどのひとが
手放しで褒めたり、称えたり、尊敬したり、評価したり、羨んだ。
それは違和感だらけだったけど、否定したところで
素敵なものは素敵だと人は言った。
だから放っておいた。
発達障害で困っていて、助けてほしいと言われると、ほとんどのひとが
同情し、心配し、右往左往し、怖がり、親切にし、優しくした。
その親切も、優しさも、人を見下してるときの子供に喋りかけるみたいな言い方も
中身は空っぽだ。
その違和感は、それだけなら多分まだ良かったとおもう。
わたし自身は、まったく何も変わっていなくて、外見も、職業も、性格も、できることもできないこともほとんど何も変わっていないのに、
世界からの扱いが180度入れ替わったのだ。
人を見上げるひとの敬愛は、薄っぺらいもので表面的であって
そういうひとがかける、表面的な優しい言葉もまたとても薄っぺらい。
その両方をいやというほど体験してきたこの日本の人生。
そんななかで
ただ本当のすがたを捉えて、淡々と愛を示す人が
どれくらい少なくて、どれくらい貴重で、尊いかを日々痛感する。
外国にいたときはほとんど気づかなかった。
彼らはあんまり職業とか年齢とかを相手に訊ねたりしないし、かといって他人で
何も知らない相手のことを平気で助けるし、そういう場所でわたしは、
特別に見上げられたこともなければ、なめられたこともない。
ただ愛されて、どんなわたしでもマイとして大切にされていたから。
それはとてもシンプルで、楽だった。
本当に、相手をいろんな外見で決めつけて勝手に接するんじゃなくて
ちゃんと相手を見ていくこと
子供と過ごす時ももちろん同じ
誰かがどんなひとかを、決めるのは年齢でも顔でも肌の色でも性別でもない。
自分の考えや思い込みで、相手がどんなひとか決まるなら、そこで関係は終わるさ。
誰かがどんなひとかは、本人ですら決めるものじゃないのに。
それはただ、そこにあるものだ。
伸びしろがあって、希望や未来があって、成長していく本質というもの
これは
最初から与えられたギフトなのだから。
ただそれを決めつけるんじゃなくて
知ろうとすればいいだけなんだよ。他人に対しても
自分に対しても。
淡々と愛を示すというのは、そういうことだよ。
誰かを見上げたり、見下したりする人生は
果てしなくつまらなくて、なによりしんどいとおもう。
それはイコール、いつでも自分が優越感に浸ったり、劣等感にまみれたりするんだから。
そこから自由になればよい。