誰かを許せないとき、それはそれは苦しくて、許せない相手の顔がずっと自分を縛り付けて
気が狂ったように頭に浮かぶとおもう。
それは相手の失敗だったり、相手の未熟さだったり、外見だったり、ものの見方だったり、価値観だったり、狡さだったり、弱さだったり、とにかくあげればキリがないけれど、
受け入れ難い、何か。
そういう時、強い怒りが湧く時もあれば、とにかく自分が惨めな感じがして許せないときもあるだろうし、いろいろな感情がわくと思うけれど、共通しているのは、
「自分は悪くなくて」「相手が悪い」という感覚だろうか。
または自分が正しくて、相手が間違ってるとか。
そういうとき、相手を許せなくて許せなくて、そして自分はどんどんと苦しくなっていく。
ぎりぎりまで苦しくなってもなお、相手が変わる余地は無さそうで、許したくてもどうにも許せないということが起こってくる。
「許す」っていうのを想像したときにどうしてもできない時、多くは、自分が受け入れ難い価値観みたいなものに許可を出すことで、自分が正しいと感じていることが踏みにじられるような感覚がすることだ。
もしも許したら、自分にとってとてつもなく大切なことが壊れてしまう。
相手を許したら、間違った場所に力を与えてしまい、自分が傷つけられたり、正しくないことがまかりとおってしまう。
そうなっていくと、わたしたちは否定したい価値感のことを、頑として「許せなく」なっていくものだ。
この場所から抜け出すにはただひとつ。
「許す」ことは、これ以上状況を悪くしたり、これ以上許せない相手に力を与えたり、さらに自分が辛い思いをするとではないんだ、と気づいていくこと。
許しは、ただ私たちを自由にし、ガチガチに苦しんでいた場所から解き放ち、
そして同時に相手をも自由にしていくということなんだ。
自分とは違う価値観や、受け入れがたかった出来事、誰かの失敗
どんなことでもいい
それをただ、許すことは、わたしたちが唯一本当に楽になって、歪んだ世界を元に戻していくための、第一歩なんだってこと。
それはそれは、火炙りにされて身体中が焼けつくような思いがするくらい、難しい感じがするかもしれない。
死んでも許さない、絶対に許さない、悪いのはあなただと
墓場まで持っていきたくなるかもしれない。
でも、もしも本当に相手にも気付きや自分を省みる余地を与えたければ、
なお、前に一歩進む勇気を持つことが大切なんだと思う。
とはいえひとりでその拷問のような時間を、どうくぐりぬけていいのかもわからない場合はたくさんある。
だからわたしはこの香りを作ったんだよね。
ほんの一ミリでも、そのグッと耐え難い階段を登るプロセスが
楽になりますようにと祈って。
誰かを許さないと決めているとき、わたしたちはわかりやすい形で
「人生の失敗者」として自らの道を塞いだりする。
病気になったり、不幸なままでいたり、そしてそれを「お前のせいなんだ」と心の奥底で思うこと。
すべての怒りの奥にある、「ほんとうのきもち」にアクセスできたときに
全部が海に融けて
ああもう戦いは終わったんだ。
もう、手放していいんだ。
もう、許しても自分は大丈夫なんだ。
もう、
幸せでいていいんだ。
そんなふうに感じられるように。
…..
とても初期の頃にできた、2つめかな?の香り。
カームの半分は、優しさでできていて、強く激しく固まった怒りの奥底にある、ほんとうのきもちを引き出してくれる。
なみだが溢れて、自分を縛っていたのは相手じゃなくて自分自身だった、そう気づくとき、全ての変容と、許しが起こる。
それはそれは、パワフルな変容だね。