記憶喪失の喪失しない記憶のこと

 

我にかえるというか、思い出すときがある。

わたしが、ふつうのときに常に記憶喪失みたいにして生きているなかで、愛のことや、癒しのことに戻ると

すべてを越えた場所で、すべてを思い出しまっとうな場所に戻るような感覚がいつもある。

 

日常生活で、5分後の見通しすら見えないくらいに真っ暗で、さっきまで側にあった体温が消えて、一瞬で迷子になり右往左往し、泣いて、危うい感覚で霧の中手探りで生きているのに対して

 

誰かの人生の壮大な地図のことや、いま誰かの中でどんなふうに癒しの過程が進んでいるかとか、普通のひとが通常、未来予測などできない濃霧でしかない場所で

すっととおく果ての果てまで、見通しがきく。

それは、自分にとってはとても自然で当たり前の感覚なので、わざわざ取り出して語る必要などどこにもないくらいに

それはいつも本当に不思議な感覚がする。

 

みなが迷い、人生の岐路で立ち止まり、間違えたりすれ違ったり、傷つき傷つけ合う場所で

なにが起こっているのかが、事細かに手に取るようにわかり、どこをどう順番にほどき、そして近い未来に整ったら、その次にはどこを耕していけばいいかまで、大抵のことが見える。

過去にも遡り、何が起こったのか、どこをどうしていれば

ここまで酷くはならなかったのかもほとんどわかる。

 

それを相手にどこまで伝えるかや、いろいろな事情でその通りに進むかどうかも別として(本人のエゴや、愛の兼ね合いなどがある)

みんなが持って生まれてきている人生の行き先の計画書というか、地図を見通す力は、繰り返し磨きながらいつからか鮮明に持てるようになった。

 

ところでひとつ言えることは、愛や癒しの原則というのはとても普遍的で、太古の昔からそれはほとんど変わりがなくそこに渾々と流れているので、

毎回コップが机の上から台所のシンクに移動したりするのとは違い
(これがわたしの場合は日々とても困る、大混乱になる)

いつも、どこにあってもそれは、同じ場所で同じ様で同じ変化を繰り返すので

いつ語りはじめても、【忘れる】ということや【迷う】ということが起こらないのだと思う。

 

発達障害のそれと同じで、よく通常の記憶がほとんどできないのに、電車の駅のことならなんでも話せる的な(このまえサカナくんと同じか?と訊かれたんだけど)やつがあるけど

ちょうどそれによく似ている。

愛や癒しのことに関する情報量は、ほとんど無限という感覚で自分の中にあって、自分がどこにいて、何にアクセスすればよいのかがいつもわかる。

雲を掴むようにして心許なく住んでいるこの変わりつづける物質の世界。

それに対していつも変わらずに安心していられる愛の世界。

 

なぜわかるのかは、わからないけど、それに頼りすぎず、自分を信じて、これからも必要な助けをみんなに借りながら、自分の力をみんなが必要とする場所に、使ってゆきたいと思う。

 

 

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