なんかこう、
いつか昔、料理人の皮を脱いで料理がしたかったのと同じように、セラピストを脱いで、その状態でわたしはセラピストをしたかったのだとおもう。
やっといい感じに脱げてきて、それで安心して料理をしたり、セラピストをしたりできてる感じがする。
セラピストとしてセラピストをしている時は、ただひたすらにしんどくて、そのすべてを請け負う気持ちであるのと同時に、きもちの逃げ場がない気がする。
セラピストの先生は、セラピストでいるよりは楽だったけど、
その先に、力が抜けた状態で、
「別に、なんでもありじゃん?」と思いながら何か偉ぶったことを言うまでに、この1年の発達障害耐久マラソンは必要な時間だったと思う。
すべてを底辺まで削ぎ落として見えてくる世界と、そのすべてを受け止めた上で笑うこと。
わたしはいつか、苦しみながら、そんな場所に行きたかった。
今やっと、その場所に足を踏み入れてる感じがして、それが嬉しい。