学校があるあいだ、駅前の図書館によく足を運んで、なんとか無事に修了できた。
さいごの週、お母さんが死んで、一瞬なにがなんだかわからなくなって、学校も、最後ゴールの直前に
わたしなんで、こんな勉強してんだっけ…と思って
時が止まったような気がしたけど
そういえば、なにかを走り切るとき、一番苦しいのは始まる前で、その次に苦しいのは、終わるときだということを思い出したんだ。
別に苦しい感じはしなかったけど、どちらかというとむしろ、終わらせた後がわたしは怖くて、いつも終わらせることが苦手なんだとおもう。
最後のクラスで、1番最後にわたしは手をあげて、
アクシデントではなく自分のことばで、みんなに発言をした。
お母さんが死んだこと。
みんなとこの時間を共有できて嬉しかったこと。
いのちは、尊くて美しいこと。
緊張と、おかあさんのことを想って、震えた声になったけど、ただ、ありがとうと言えて本当によかったなと思った.
お母さんが亡くなった当日
ぴんかさんと話して、泣きながらいろんなことを手放す覚悟を決めて、
潤のことも お母さんのことも 学校のことも
なにもかもが同時に終わり、わたしはもぬけの殻になった。
空はとても明るくて、未来もとても明るい感じがして、
お母さんの遺影の前で、手を合わせて話そうとすると、
高い愛につながって、涙が自然と溢れてくる。
悲しいとは全然ちがう、ただじぶんが素直に自分のことを、話せる愛に包まれる感覚
つながりは、死んだあとのほうが強くなるといわれて、
そうなんだ。
ほんとうにそうだな、と思った。
生きている時には
素直になっても、通じないことばが
目に見えない場所では、ことばを越えて、愛が伝わる感じがする。
学校をがんばった時に、図書館でスタバを買って、べんきょうをして、
まりあがくれたスタバの券を一生懸命右往左往しながら買って、うれしかった時間。
もぬけの殻になったあと、がんばって自分で買ったゆずのアイスティーを
外に出た瞬間に落として、飲む前にぶちまけてしまって、悲しかった。
がんばってもがんばっても、
ひとりでいると、たくさん失敗してしまって
いつも、そばでさっと荷物を持ってくれたり、支えてくれるひとがいる日々を まだまだ思う。
自分が、荷物をもっていると上手に歩けないことに気づいたのは
ほんとうに最近のことで、
ずっとそばに人がいてほしいのも、寂しいとか欲ではなくて
自分を知り、自分を大切におもうがゆえだった。
まりあに、「落としちゃった😢」とラインすると、優しいメッセージが届いて
翌日スタバの券をくれた。
まいが、いつも、700円の券で使いきれずに
計算するのにいっしょうけんめいで、無理して大きなのを買ったりして、
こまらないように
500円の券になっていたのが、嬉しかった。
なにかが
おわり、
そして
あたらしいいのちはもうそこらじゅうに芽吹いていて、
これからたくさんの出会いがきっと待っている
そんな季節
何もかもがやさしくて、なみだが出るよ。