わたしたちは、ずっと愛を欲しがっていて、ずっとそこに辿り着きたくて、果てしない旅を続けるために生まれ変わり続けている。
その時に、いつも、いつも自分の中の愛や正しさを秤にかけながら、誰もが必死で生きていると思う。
そして、愛を欲しがり、愛に辿り着きたくて、そのてっぺんを目指すと同時に
その愛のことを、否定することがあることに気づいた秋のことだった。
たとえば誰かが誰かを愛し、誰かが誰かを愛す時
それが幸せな場所に収まることを祈ったり
その幸せをうまく祈ることができないとき
嫉妬や、自分が幸せでないことで、上手に誰かの愛を認めることができないことが
あると思う。
それはとても、自然なことで、きっとよく起こることで、
人の成功や愛や豊かさを素直に喜んだり応援できないときもきっと、人生で辛い時期なら起こるはずだ。
でもそういう単純な嫉妬じゃないときの
わたしが潤を愛し、そして潤がわたしを愛したときに
誰からもそれを認めてもらえなかった最後
何が起こっているのだろうとそう考えて、
その気配のようなものを掴めた。
それは、人々の中にある、自分が思う、愛や、望んできた愛や、追いかけてきた愛、正義、そして自分が理想とする愛、手に入らなかった愛、正しい愛、これまで愛を手にいれるために努力してきたその全て
その「愛」が、もしもわたしと潤の愛のカタチがうまく行ったとしたら
それは規格外であり、ありえないことであり、普通ではないことであり、
もしもそれを応援してしまったら、認めてしまったら、
自分がずっと貫いてきた「愛」は、もののみごとに枠を成さずに崩れてしまうことを
知っているからなのだ。
わたしが潤に出会い経験してきたこの長い年月は
今まで自分が誰かを愛し、恋に落ち、幸せな時間を過ごしたり、結婚して穏やかな生活を楽しんだり、そういう、よく知っている愛とは、まるで別次元のものだった。
それは厳しくて過酷で、学びに満ちていて、次々と自分の「愛」の枠を外してアップデートし続けていかなくてはいけない旅だった。
そして、それを理解し前に進むたびに
わたしは大きくなり、動じなくなり、そんな愛がこの世界に存在していることを知った。
そしてそれを分かち合い、理解し応援してくれるひとに出会うことは一度も結局なくて
ただ高次とタオくんだけが、それを知っていてくれた。
何度外れても導かれて戻ってくる場所
何度邪魔が入っても、その障壁を乗り越えて戻る場所
そんな愛のことを、皆は認めない。
愚かだと誤解したり、ただの理想であり、幻想だと誤解したり、わたしの思い込みだときっとそう思う。
なぜなら、もしもまいが体験している愛のことを理解して認めたら
自分の信じる全ては失われるとそう感じるから。
これまで自分が諦めてきた全てが、もしかしたらほんとうは叶うものだったかもしれないと知ったとしたら
その絶望以外のなにものでもないことを
簡単に受け入れられるひとなど、この世界にはいない。
わたしがそうだったように。
この世界の愛のことを
学び、拡げてゆく魂として生まれてきた自分と
潤の行く末は
最後まで、笑えるほどに滑稽だ。
それをケタケタと笑い見守ってくれるタオくんと共に
感情に振り回される人々の波をかきわけて
自分の中の、ずっと、ずっと信じてきたことのその地へと、向かう。
自分の愛は常に否定されてきたけれど、それは、人が自分の中に愛についての正しさを持っているからに他ならなかった。
そしてその「愛に対する正しさ」というものは、愛が人々にとって大切であるからこそ
誰の中にもあることが多くて
その愛に正しさがないことが理解できることを
正しさがないこと自体が愛であることを
これから拡げてゆくことが
わたしのしごとなのだと思う。
正しい愛
そういうのをきっとわたしもずっと持っていた
その間は潤に会えることはずっと無くて
それが消えて
愛に正しさがなくなった途端に
人々が正しさを、掲げてくのがよく見える
そしてわたしは、立ち止まらなくていい
大きな羽で、誰のことも振り落とすことなく空へ飛んでゆける。