わたしにとって、それは本当にただのしごとという感じがする。
愛すること、好きなことは本来は、ただ純粋にやりたくてやることだから。
そういうものの中に、パートナーシップは入ってない。
昔はなんかもう少し楽しむための要素がたくさんあったけど、潤とのことは特に、相手を好きだとか愛してるという感覚はもうずっと果てしなく遥か彼方の遠くにあって、ただセラピストをしていたときに真剣に、人の根深い闇を暴いて解いて自由にしてゆくために、延々と解決してゆくことをしてきたのに似てるというか、その一環だ。
なんなら、わたしは潤のことを癒して誰の手にも負えないこじれを最後まで紐解くために、セラピストとして一流を目指したんじゃなかろうかと、そう思うくらい出会った頃も今も、酷かったというか変わってない。
わたしのところにくるクライアントさんは、他で手に負えないほどに闇の深い人ばかりだったけど、その中でも間違いなくダントツでナンバーワンに輝くほどにこじれて癒しても癒してもどうにも特性との関連において、まだ癒しと特性の掛け合わせとしての情報が少なすぎるため、全部開拓してゆかなければいけないものばかりだった。
好きも愛してるも一緒に居たいも全て手放したあとに、残るものはきっと、世界を癒して世界に愛を届ける道につながっている。
恋愛依存やセックス依存は、シンプルな発達の特性に由来していて、それが自由で理解された上で成り立っているのならば、そもそも依存とは呼ばないだろう。
彼がそして自分を傷つけ続け、何が起こっているのか理解できるまで、完全に癒されるまでわたしたちの旅は続いてく。
わたしは潤やりゅうじが癒されて本来の愛に戻ってくのを見届けたら、しごとは終わると思っていて、その日を待ちわびているだけなんだと思う。
好きか好きじゃないかと聞かれれば、そんなものは先に書いた通り果てしなく遠い場所(通ってきた場所)に置いてある。消えゆくわけもなければ、過去になるわけでも、失われるわけでもない。
それでも彼らはいまだに、マイから愛されているのだろうか?と不安になり続けるわけで。
それも特性由来のものだ。
わたしは恋愛が課題だったから、それをクリアにしていくことは、自分の幸せとギフトにつながっているのだろうと想像していたけど、もっとはるかに仕事っぽかった。
ただ昔のようにそこに溺れたり苦しんだりしなくなったことだけは、本当によくここまでがんばったねと自分を褒めてあげたいし、恋愛が必要じゃなくなるほど結局いのちがけで苦しんだことを思えば、恋愛にうつつを抜かしていた頃のほうがよっぽど幸せだったのかもしれないけど。
この人生でただ与えられたしごとをする。
ひとが目覚めているのを見届けて、祈り、癒し、愛を送る。
それは嬉しくても嬉しくなくてもただずっと続く自分のライトワークだ。
たくさんお金をもらおうとも、そうじゃなくともそれは関係なく。
だから自分はちゃんと自分の好きなことを大切にしていてあげたいとそう思う。
英語や海外や、美しいものや可愛いものや、美味しいもの。
そこは誰にも侵されないわたしだけの世界だ。