Keywords三次元

最近おきにいりのAlexis。なんて美しいピアノとビデオとストリングスの音色。まるで淹れたてのホワイトティーに氷を浮かべて冷たくしたものを、一気に喉に流し込んだみたく胸がすく。大好きだ。

 

 

Konmariのテレビをみて、自分の中の苦しさがうわっと押し寄せて、過去それを繰り返していた。世界で活躍する日本人。本当に自分のままで生きることが、そのまま世界の宝になることを知っている生き方の模範のような人だ。

ようやくここ数ヶ月は、いよいよ自分の本質をもう一度改めて見つめ直して、この先世界とどんなふうに関わってゆきたいのかを

改めて洗い出していた時だった。

 

わたしは、過去に一度三次元で成功することに対して真面目に取り組んだ。売れるためのアプローチや、ファンをつけることやお金を稼ぐこと。

セラピストの仕事は、3次元の要素を一切抜いても100パーセント純粋に愛や癒しに取り組む質で問題はなかったけれど、そのことと、売り出すために告知をSNSに流し続けて集客する、というのは全く別の要素だった。

たくさんの人の力を借りてそれをやって、毎日ファンと呼ばれるような人たちに囲まれる日々は、とても充実していて、お金や仕事は、自分が望めが簡単に作り出せるもの。という感覚があって、何もかも思い通りに創造できる世界は楽しいはずなのに、どこか空虚だった。

 

それから、自分にとっての本当の喜びや幸せは一体どこにあるのだろうと模索る日々が始まってから、ずっと裏舞台におり、まあ3次元的には転がり落ちるように転落したように見えたことだろうと思う。

そして自分でもまた、自分は敗者であり惨めな負け犬であるとそう思っていた。

それでももう一度、自分の持っている何かをぶら下げて世界に出ていくぞ!認められて有名になるぞ!と思える日はいつまで経っても来なかった。

それはなぜか?

それが自分にとっては、本当に興味がなくて果てしなくどうでもいいことであることに、何回か死にかけた後にようやくそう気づいたからだった。そして、その一時的に強い影響力で誰かの人生を変えたり癒したりすることができても、結局それは本当に一時的なものであり、接し続けることができない限りはあっという間に元に戻っていく、絶望もあった。

ただ、何もせずに自分の持っている能力を持て余す日々は、地獄のように辛かった。それだけは抜け出したいのに、モチベーションが見つからない。誰かのために、愛する人のために、がんばることができても、自分の喜びに繋がらないことはとても辛いことだった。

 

自分の好きなこと。それすらも世界の照準に合わせていくと面白く無いことしか転がっておらず、簡単には見つからない。

そしてそれはいつも、誰にも理解されない場所に、自分の中だけに存在していた。

売れている自分と、そんなものに1ミリも興味のない自分が乖離しすぎていて辛く、世界に自分の愛を広げたくともどうしていいかわからない日々は何年も続いた。

そして、それを統合してみる時間。

左手に松永まいという外向きで世界から必要とされていて、褒め称えられて賞賛されている自分。

右手に、Maiという、誰もいない世界で凛と立っている自分だった。

 

それはまるで、日本にいるときの自分とそして、海外にいるときの自分の居心地そのものだった。

日本にいるとわたしは、黙って何もしていなくても浮いてしまう。別の空気を勝手に醸し出してしまうし、いちいち同調しないから目立つ。それはいいことではなくネガティブなときも同じだ。

そして海外にいるときの自分は、誰にも気づかれずに本当に普通のひととして生活ができる。悪目立ちもしなければ、コミュニケーションで困ることもなければ、家族や友達に普通に愛されることで十分成り立つ幸せで、賞賛されたりファンがいたりしない。

左手と右手の自分はそして、どんな感覚がするか虹の形の橋をかけるように見ていくと、右手に立っている自分は、ただただ何にも動じず凛としており、神々しいほどのしなやかな強さを兼ね備えていて、本当に何も持っていないのにも関わらず堂々としている姿は、自分自身のわたしから見てもカッコよく、涙が溢れてくるようなぶれない愛そのものの姿だった。

普通の生活、普通の仕事、とりたててなにひとつ特別み見えることが無いことは、価値が無いことではない。

むしろ逆で、何も必要がないことを知っている豊かさと愛の強さは不動なのだ。

そしてそれが、自分の本質だ。

 

それでは左手の上に乗っている自分はどうか?Konmariのテレビを見て出てくる、にこやかに、人にわかりやすく丁寧に接し、綺麗にして、模範的な人生を演じるような、憧れられ、それで人を導いてゆくこと。

本当の自分ではないような、ただ松永まいを演じている自分のような、役割を全うすることの素晴らしさと、それは自分ではないことを知っている感覚。

まず右手のMaiに対して、左の松永まいは、羨望の眼差しで右手を見ていた。本当の愛や強さは、ああいうもののことを言う。

まぎれもない本物の愛に対して、着飾ったり何かをしても決して太刀打ちできないその巨大で凛とした自分自身に対して、心の底からの憧れを抱いているようだった。

そして、そのもうひとりの自分自身に憧れを抱く自分に、おそるおそる近づいてゆくと、そこには何があったか。

それは「感謝」だった。テレビにでてくるKonmariのように、彼女はうつくしくしていて、日本人の大勢に対してちゃんと丁寧に愛を持って接していて、愛されていて、右手のMaiの近づきがたい様子とは違って、優しくて、思いやりがあった。感謝のエネルギーが常に大きく流れていて、うまく言葉にはできないけど、とにかく右手の自分が、世界とのつながりを作ってくれる自分に「感謝」をしているのがわかる。

左から、愛と憧れが右に流れてく

右から、感謝と敬意が左に流れてく

 

わたしはいつも、右手の自分でいるのが心地いい。

誰のことも世界もなりふり構わず自分自身でいることで、自分が輝いていくこと。

でもそれを、世界につなぐことができなければやっぱりずっと独りになる。

そんな自分を、3次元の自分が外に出してくれていることへの感謝。

最初、右手と左手がまるで反発しあう磁石のように、決して交わることなく離れていた。近づけようとしても交わらない。そこに、少しづつ二色の色が渦を巻いて巻き込まれてゆくような感じで、混じっていった。

 

それはまるで昔かいたとこしえというタイトルの永遠をイメージした、その絵みたいに、床屋のぐるぐる回り続ける看板のように、しずかに混じり合っていって、最後色が一色になったとき、光の3元色のようにして、混じれば混じるほど明るい光に包まれて一切色が見えなくなった。

 

 

 

3次元の自分と、本質の自分の相入れない苦しさと 乖離しすぎてどちらにも行けない苦しさ ひとつになったことで、わたしは安心した。

Konmari氏のテレビを見ることが、ずっと過去苦しかったのが消えて、そう、あれは自分の中にもちゃんと存在している要素なのだと安心感が芽生えた日。

(数日前)むしろ、尊敬と感謝の気持ちでいっぱいになったことがとても嬉しかった。

そして、どんなことがあろうとも、自分は自分を信じてゆきたいとそう感じる。

まだ先の見えない暗い日々が続くけれど、必ず明るい場所に出る日がくるから、そこまで歩いてく。

しごとで成功するとき、という意味ではなく

自分がただ、自分らしく生きて、それがある日パッと世界とつながるその日まで。