光によって影は必ず浮き彫りになるのは自然の摂理なわけで、これまでは、その全てを自分が映し出したとしたら癒し光に変えていかなければならないとそう感じてた。
そんな中で自分にできることは命懸けで全てやり、最後死ぬとなった時から、ようやくその影を自分が世話をしなくて良いものとして認識してゆくことを理解しようとしている。
巻き込まれずに自分を守り、愛や光を奪われたまま生気を失うのではなくて、とにかく「すべてはひとつである」が、人間の身体にとっては限界があるという、当たり前のことを、学んでいる。
わたしの懸念は、そして光に吸い寄せられたときに浮き彫りになった、人々の闇はどうなるのか?ということだった。
美しい世界に雲隠れして、気づきが訪れてほしい闇について、相変わらず見てみぬふりを貫く、表面の思いやりで根本解決に一切つながらない、ダサい世界のままになるんじゃないかということだった。
その美しさだけで自らをも騙してしまうエネルギーすらも、時代が進まなければどれほど全力で戦おうとも無駄足に終わる、という知恵がついた。
そして一生の長いスパンと今の時代に合わせた上での自分にできることを改めて探していく。
愛を拡げる方法や、美しく表現したり徹底して創り上げるとしても、そこで終わりではない。
いつか時代は変わる、数十年後には少なくとも人権が何かを知るひとが増えることを祈り、おおらかに構えられるように。
しかし自分は今の時代においてそこを請け負うことはやれることはやった。今後は基本しない。
これでようやく身に染みて足を洗えそうな感じがする。
といっても「まあそれでも目の前に来たら全員全力で助けたくなっちゃうのがまいちゃんの愛だけどね」
といつか言われた言葉のごとく、切り捨てたりすることはきっとできないかもしれないけど、とかく自分の人間としての肉体の存在を傷つけ続けてまで、この世界の無知な部分に自分の身体を晒していくことは終える。
肉体を守るための基準を作ってゆく。
あとはタオ君に言われたように
「かわいいと楽しい」だけでいいわ、と気楽に生きてゆきたい。
誰が誰を無知により傷つけ合う世界を、よりよくしたいと思うきもちを簡単に手放すことはできなかったけど、「時間がかかる」「時代」というキーワードは希望で、Compassionを使う。
哀しいほどに受け入れていかなければいけないこの世界の救いたい部分に、一生懸命取り組んでいるひとたちは、私以外にも必ずいてくれる。その人たちに託して、自分は自分を生きていく。
時代を間違えて生まれてきた手前の学びというものはきっと多くの先人にもたくさんあって、その上で与えられた能力を生かしてゆくこと。
それは見てみぬふりとは違い、自分を生きるという愛でもある。
To be continued…