2月5日 すべてが終わりのように感じた、絶望的な1日

なんか、自分に価値があることを、どこかで証明したりする必要は

どこにもなくて

わたしたちが、それぞれに価値があることは すでに分かり切っていることだから

そういうことを、わたしは世界に伝えたかったはずなのに、結局それを伝えなきゃ伝えなきゃと思えば思うほど、パラドックスに迷い込むように、わたしは自分の価値を見失っていったのだと思う。

今日のセッションで、いろいろなことを言われたり、言うたびに

自分がマスクを被った偽物みたいで

人の役にたつことや、アドバイスをすること全てが、自分が経験してきて紡ぎ出す言葉の全てが、嘘くさく思えた。

でもそれは今に始まったことじゃなくて、この長い期間2015年にセラピストを始めてから、8年間、ずっと感じてきたことのように思う。

 

すべてを辞めて、すべてをとっぱらって、わたしは何がしたいんだろうと思った。

売れるとかの執着は、長年向き合いすぎてきたせいで、もうそれが執着なのか何なのかすらよくわからなくなった。

ただ少しして、最近の今に穏やかにいる日常を思い出していったら、今自分が大切にしていることは、目の前の生活なのだという感覚は確かに出てきて、それはきちんとこの手で握ることができる感触のある、リアルで、それがありがたかった。

 

多分わたしは潤との生活を思い描きすぎて、というかはやはり潤とであったときに全てを棚卸して何もいらないと感じたあの頃のように、なんというか、身軽でいたいのだと思う。

 

責任のある仕事や充実して人から必要とされる日々は、本当に楽しいけれど、やはりマルチタスクには向いてない。

愛するひとのために毎日ご飯を作る生活だとか、静かで穏やかに過ごす時間

光の中で泳いだり、土をいじる時間

そのどれもが、自分が生きていると感じさせてくれて、そういうことをただひたむきに大切にしてゆきたいと、今でも望んでる。

 

大事そうに見えるしごとが、自分にとっては過去であり、

自分にとっては二の次であり、やりたいことは、妊娠中に途中でやめることになってしまった、大学の事務のような穏やかで続いてく仕事だと感じられたことが、とても嬉しかった。

鋭気を養って、焦らずに、今この瞬間を積み重ねてゆきたい。

すべてを終わらせて、わたしは前に進みたい。

そして、日本で売れることよりも、もっと遥か大きな宇宙を感じられる人生のブループリントの上を、果てしなく自由に歩きたい。

それがわたしの、この曲のように生きたいといつか願ったときの、その軽やかで澄んだ感覚だ。

だいぶ近づいていると感じる。

 

 

完璧じゃなくていい

変でいい

ひとより抜きん出ていてもいい

特別でもいい

それがたまらなく重圧で嫌だったけど、

全然いいんだ。

それはエゴでもなんでもなくて、ただ与えられ、そして生かせずに苦しんだわたしの末路だとしても

 

それを望んで生まれてきたのだとしても

世界に還元できずに無駄にしたとしても

 

完璧じゃなくていい。

わたしは普通だし、普通じゃないし、完璧じゃない。

みっともなくて、弱くて、エゴに満ちていて、ダサくて、かっこわるくて、いつも失敗だらけで、どこにでもいる、普通の悩める中年だ。

 

この日本でハンデを負いながら生きるときに

成功しなければ、この人生は惨めなだけで成功ではないとそう思った。

 

でもこの日本でハンデを負いながらでも、

アメリカで生きるように、誰とも同じような普通の生活が送れるのだとしたら

それは、きっと成功だ。

 

全てを受け入れて

全てを愛して

しなやかに、

素朴でシンプルでそして

美しく、ありたい。