ネットフリックスの、ウヨンウは天才肌というドラマをみた。変わり者の弁護士のはなしだと思ってたら、自閉症の女の子のはなしだった。
一話をみて、いろんなきもちが湧き上がった。
弁護士というのは、尊いしごとだと、弁護士がでてくるドラマをみるたびにいつもそうおもう。
そしてそのたびに、まこに、ありがとうと言いたくなる。(まいちんの大好きなまこは、弁護士)
昔まいが無免許運転でつかまったとき、すぐに助けてくれて、まこがいてくれたおかげでまいちんは罰金を払わずに済んだことを、いつもいつも思い出して、まいにち
この世界で、争いの間に立って戦ってくれて、みんなを助けてくれて、ありがとうっておもうんだ。
いろんな目的で、弁護士をやってるひとはいて、知恵や知識をまちがえた使い方をしてるひともいるけれど
そうじゃなく
純粋に
困っているひとを助けたり
誰かのいのちを救うようなしごと
ただ、なろうと思ってなれる職業ではないってこともあるけど
そうじゃなく、尊い役目だとそう思う。
わたしたちは、ただ、知っていれば自分の身を守ることができて、
知らないだけでたくさん傷ついてしまうことがある。
そういうときに、いろんなことを知っているひとがそばにいることは、たくさんの、不条理から、愛や大切なものを守れるということだ。
それほどありがたくてすばらしいことはないし、
だから勉強ができて賢いひとたちは、ほんとうに価値があって尊い。
かみさまは、わたしたちにいろいろなものを与える。
それはときに、ひとよりもとても抜きん出ていて、
天才と呼ばれるようなところもあれば
ドラマの主人公みたいに
刑法はスラスラと言えても、回転ドアが通れなくて
ずっとビルから出られないみたいに
みんなと同じように簡単なことができないところも。
わたしは、昔ゆりえさんに、助けてほしいとおねがいした返事に
老人と幼児が同時に存在してるひとを天才という、そしてあなたはそういう人で、助けたくない
そういう感じのことを言われたとき
ただ、悲しかったんだとおもう。
天才といわれることは、この人生でたびたびあって、でもそれは、わたしにとっては決してかならずしも褒め言葉じゃなかった。
ひとが、誰かを見放したり突き放すときの免罪符みたいな。
天才を言えば、それで許されるみたいなところがきっとある。
おはなしの中で、
ウヨンウのことを、困ってて助ければ、自分を差し置いて1位になってく。と言う同僚の子がいて、わたしも同じ場面で、誤解されて、助けてもらっては、「できるじゃん」とみんなが去っていくのを山ほど体験したことをおもいだした。
それは、あなたが助けてくれたからできたんだよ、と何十回伝えても、結局たったひとりで立ち向かっていかなければいけなくなることを、受け入れつづけてきた人生だった。
ウヨンウは、ただくじらと法律を愛してる。
ただ法律を愛していて、争いのなかの本質を見抜いたら、あとはパズルを解くように、人と人の愛やエゴの合間を縫って、謎を解いていくのだ。
まいちんも、ただ、癒しや愛のことを愛していて、それを目の前に差し出された時には、自分のすべての知識をフル回転させて、そして、ウヨンウと同じように愛と癒しの勝利を勝ち取りに行く。
ウヨンウやまいちんや、まこのいう「勝利」とは、
「その瞬間と、未来を見越した上での最善」のことだ。
でもまいちんも、回転ドア、いまどきは本当に無くなったけど、アメリカにいたといとか、デパートに入れなくてよく困ったもんだったなあ😂
映画やドラマで描かれる自閉症は、むかしは見る度にもやっとしたものだった。いまも、まだすこしもやっとするときはある。
でも、ただただ今は、そんな自分のことがとても愛おしいと感じて、純粋に生まれてきたことを、自分の存在を、尊いことだと感じることができることが、うれしかった。
たくさん時間がかかったけど、自閉症であることをほんとうに受け入れることや、この日本でどう生きていくかということも、わたしは最後、ちゃんと自分のちからで、自分を幸せな場所に導いたんだ。
よくがんばったね、と何回もじぶんに言いたくなる。
そして、ウヨンウが回転ドアを入れないときに、それをバカにしたり変な目でみずに、そばで一緒に手をつないでドアに入ってくれるひとがいること。
障害を見下ろすこともせず、天才を見上げることもせず、
ただありのままの自分を、そのまま愛してくれるひとがいること。
それがなによりの、希望でうれしいことだとおもった。
ウヨンウ、16話あるから、また時間あるとき見よう。